初日はAM5:00に起床、天候は曇りでした。AM5:30に自宅を出発して、高速道路で4時間余り、一路京都へと向かいました。途中、岡山周辺までは曇りながらも天気は持ち堪えていたのですが、兵庫県に入った頃からパラパラと雨が降り出してしまいました。 そして最初の目的地である、学問と勝運と馬の神様として知られている藤森神社へ到着しました。ここでもあいにくの雨で、傘を差しての参拝でした。 拝殿 藤森神社境内にある本殿と同時に御所より賜ったもので、割拝殿として有名だそうです。
神馬像
本殿 切妻造、桧皮葺。正徳2(1712)年、中御門天皇より賜ったもので、宮中内侍所(賢所)だったそうです。現存している賢所としては最も古いそうで、その原型をとどめている。と書かれてありました。ご祈祷受付で購入した勝運賭(駈)馬守です。この写真では勝運賭馬守として馬が左へ向いていますが、裏面は勝運駈馬守として、馬が右へ向いています。現在は財布の中に忍ばせて常に持ち歩いています。さて、ご利益やいかに!!
御旗塚本殿の東にあり、神功皇后が纛旗を樹てられた所で、藤森神社発祥の地だそうです。ここにあるイチイガシは“いちのきさん”として親しまれていて、ここにお参りすると腰痛がなおると言われ、幕末の近藤 勇も参拝してなおしたと伝えられているそうです。MIEも持病とも言えそうなほど、ヒドイ腰痛持ちなので参拝してみました。本来なら根気よく何度も参拝すればご加護もあるのでしょうが、旅の者につき無理があります。少しは痛みが和らぐと良いのですがね。。。
次に向かったのが京都市内の中心部にある京都御苑の中の京都御所(事前に参観申込が必要)です。藤森神社から車で50分ほど走りました。ここでは時間厳守だったのですが、当初の計画よりも1時間以上も早く到着してしまい、京都御苑の外にあった喫茶店で軽い昼食を摂り、参観時刻になるまで丸々1時間も車の中で待機していました。無駄な時間だね〜(-_-;)ぎしゅうもん宜秋門御所の一般公開などで使用される門で、いちばん位の低い門だそうです。
おくるまよせ 御車寄 御所内では常に団体行動です。 宜秋門がある場所から南方へと案内されて、右の写真は御車寄です。昇殿を許された者が正式な参内行事の時に使用する、いわば玄関だそうです。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で優雅な反りをなしています。一般的には決して見ることのない特徴がある屋根だし、近くで参観するとその分厚さには貫禄さえありました。「さすが御所!!」という感じです。
しょだいぶのま 諸大夫の間 御車寄から少し南に諸大夫の間がありました。 正式な用向きで参内した者の控えの建物です。身分に応じて異なる部屋に控えるそうで、最も格の高い「公卿の間」、諸侯・所司代の控えの「殿上人の間」、それ以外の者の控えの「諸大夫の間」の三室からなり、それぞれ襖の絵にちなんで、「虎の間」、「鶴の間」、「桜の間」とも呼ばれるそうです。身分に応じて区別されるというのはどうでしょう。単純に、部屋ごとに襖の絵が違うと思えば、それまでですがね。。。
しんみくるまよせ 新御車寄 写真を見る限りでは、すでに紹介した御車寄と同じように思いますが、屋根の下部が全く違うし、扉も豪華になっています。新御車寄は1915年(大正4年)、大正天皇の即位礼に際し天皇皇后両陛下のための玄関として建てられたもので、御車寄とは用途も地位も違います。MIEは写真を撮るために被写体から常に離れていましたが、もったいないことをしました。屋根下や扉も近くで見るべきでした。今になって後悔です×××
じょめいもん 承明門
ししんでん 紫宸殿 承明門から遠く離れた場所に見えたのが紫宸殿です(写真はかなりズームをきかせています)。即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式が高い正殿だそうです。大正天皇、昭和天皇の即位礼もここで行われたそうです。向かって右側に「左近の桜」、左側に「「右近の橘」があり、前面の白砂の庭は南庭と呼ばれ、儀式の場所としても使われたそうです。残念ながら紫宸殿の近くまで行けず、承明門越しに覗くだけでした。
けんれいもん 建礼門
けんしゅんもん 建春門
しゅんこでん 春興殿
せいりょうでん 清涼殿 紫宸殿の背後の北西部に東面して建ち、別棟として御常御殿が建てられるまでの永い間、天皇の日常の御生活の場として使用されていた御殿です。被災や寺社への下賜により建替えを繰り返し、現在のものは平安時代の内裏のものよりは小さくなっていますが、比較的よく古制を伝えているそうです。清涼殿の東側に広がる東庭は、白砂敷きで、正面に呉竹、南寄りの軒下近くに漢竹が植えてあります。この清涼殿の場所全体がかつては竹林だったそうで、その名残として植えられているそうです。
こごしょ 小御所 紫宸殿の北東、御池庭に面して建つ入母屋檜皮葺の小御所は、平安朝の内裏には見られない御殿だそうです。皇太子の元服(成年式)などの儀式に用いられ、将軍や諸侯との対面の場所としても使われたそうです。王政復古の大号令が発せられた後の「小御所会議」は1867年12月9日の夜、ここで行われたそう。この建物は1954年(昭和29年)に火災により焼失、1958年(昭和33年)に再建されたものです。
おいけにわ 御池庭 文字通り大きい池を中心とした回遊式庭園で、前面には州浜(すはま)があり、その中に飛び石を配置して舟着きに導いている。右の写真ではわかりづらいと思いますが、ゆったりと弧を描いた欅橋(けやきばし)が架かり、対岸にはこんもり繁る樹木を配置し、苑路から様々に変化する景色を楽しむことができるようになっているそうです。御所内に植えられている木々は見事なまでに剪定されていて、とても立派でした。この日は鮮やかにツツジが咲いていました。
けまりのにわ 蹴鞠の庭 小御所と御学問所の間にある四角い庭を鞠懸(まりかがり)とか蹴鞠の庭という。蹴鞠は昔の貴人の遊びで、鹿革で作った鞠を数人で地面に落とさないように蹴って遊ぶそうです。鞠(まり)と聞くと、女の子が歌を歌いながっら地面に突いて遊んでいたものというイメージしかありませんでしたが、その昔は大の大人が蹴って遊んでいたのですね。数人でやれば、なかなかおもしろそうです。どの時代までの貴人が、この蹴鞠という遊びをしていたのでしょうか。
おがくもんしょ 御学問所 小御所の北に位置し、蹴鞠の庭をはさんで東に面し、入母屋檜皮葺の御殿となっている。格子の蔀に代えて舞良戸(まいらど)で四囲を閉ざす点や、床や違い棚を備えている点で、一層書院造りに近い建築様式になっている。御学問所というだけに、必ずしも学問のためだけの御殿ではなく、親王宣下や御進講、月次(つきなみ)の和歌の会などにも使われたそうです。建物の中は寺子屋のようになっているのでしょうか。とても気になりました。
おつねごてん 御常御殿 御学問所の北に位置し、京都御所の中で最も大きな御殿で、内部は十五室の書院造りの様式になっている。天皇が日常生活を営まれる御殿は、平安遷都当初の仁寿殿から清涼殿に移ったが、やがて清涼殿も居住様式の変化に対応できなくなったことから、豊臣秀吉の行った天正度の造営に際して、御常御殿が別棟として建てられるようになった。室町時代以降、天皇の日常の生活の場として使われた御殿で、明治天皇は東京にお移りになるまでお使いになっていたそうです。
降りしきる雨の中、傘を差して、京都御所の主任をされているという方に案内と説明をしていただきながら、皆でゾロゾロと京都御所を参観しました。また団体の最後尾には、もう一人、護衛・監視の方がいらっしゃったので少し緊張していました。京都付近に住んでいれば、定期的に行われている一般公開などで参観できる機会もあるのでしょうが、私たちにとっては、とても貴重な体験をさせていただけたと思っています。建物内も参観見学ができると勝手に勘違いしていたので、そういった点では非常に残念でした。機会があれば、一般参賀にも参加してみたいです。
とげつきょう 渡月橋 かつて嵯峨天皇が法輪寺へ参詣するために造ったといわれる橋で「月が橋を渡るように見えた」ことから亀山上皇が命名したとされる。人気の観光地で紅葉シーズンは混雑必至のスポットらしいです。私たちが訪れたのは、新型インフルエンザの影響で京都への観光や修学旅行などがキャンセルされているとニュースで報道されていた時期でした。毎年、 初冬に行われる京都・嵐山花灯路でライトアップされると、幻想的な雰囲気になるそうですよ。